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渋沢栄一

注意

タイトルと内容(エピソード)は殆ど一致しません。タイトルに拘るなら別のエピソードを探すべきでしょう。

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https://toyokeizai.net/articles/-/471472

渋沢栄一が断言した「いい仕事がこない人」の欠点

「日本資本主義の父」に学ぶ仕事の進め方の要諦

濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家

2021/12/04 16:00

渋沢栄一の仕事に対する考え方をお届けします(写真:今井康一)

「日本資本主義の父」といわれ、経営を手がけた企業は500社を超える実業家、渋沢栄一。彼の仕事に対する姿勢や交渉の進め方について、歴史学者の濱田浩一郎氏が解説します。

元治2(1865)年2月以降、渋沢栄一は小十人の身分となり、一橋(徳川)慶喜にも謁見ができる御目見以上となります。

それ以前から、渋沢には一橋家の問題点が見えていたようです。例えば、一橋家の用人(家政を司る者)である黒川嘉兵衛に対して、「慶喜様が禁裏御守衛総督(朝廷が京都御所を守るために設置した役職)を拝命のうえは、いくらかは兵隊がなくては御守衛というは有名無実ではありませんか」と進言していました。

というのも、一橋家には、譜代の家来がなく、その兵備も幕府から貸し与えられた少数歩兵部隊があるばかり。京都御守衛総督の任務を徳川慶喜が果たすには、不十分なのは言うまでもありません。

しかし、黒川にしても「どうとも仕方がない。幕府から兵隊を借りるために月々1万5000両、米5000石があてがわれており、再び借金ということもできない」と名案なく、消極的でした。

上司に対してたびたび意見していた渋沢

そこで、渋沢は「一工夫あります」として、一橋領内の農民を集めて歩兵部隊を作ることを提案するのです。徳川慶喜に直接拝謁して、そのことを言上した結果、意見は無事に採用となり、渋沢は「歩兵取立御用掛」を命じられたのです。

実はここに、渋沢の出世の秘密が隠されています。それは、上司に対して、たびたび自らの意見を披瀝していることです。

「何もすることがない」とか「いい仕事を与えられない」と不平を漏らすのではなく、自ら動いて仕事をつくっています。

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https://toyokeizai.net/articles/-/471472?page=2

渋沢は後に「役に立つ青年は、ちょうど磁石のようなもので、人に頼んで仕事を与えてもらわなくとも、自分に仕事を引き付けるだけの力を持っておる」と語っています。青年に仕事がないのは、自分で仕事をするのを希望しないか、その仕事をするだけの実力がないかのどちらかだ、とまで言っているのです。

そのうえで、どのような小さなつまらない仕事でも懸命に励んでするようでなければ、重要な仕事は回ってこない=出世はできないと渋沢はアドバイスをしています。

さて、渋沢は兵隊を編成するための兵員を農民から集めるため、備中国(岡山県西部)の井原村に向かいます。一橋家の領地は、摂津国に1万5000石、和泉国に8000石、播磨国に2万石、備中国に3万2000石、関東に2万石ありました。

渋沢はまず、大坂の代官所を訪問。そのときに代官から「備中のほうから募集されてはどうか。備中ができれば摂津、和泉、播磨国はたやすくできると思います」との助言を受け、備中から始めることとなったのです。

これは筆者の推測ですが、大坂の代官に「うっとうしい奴が来た」と思われて、追い払われたようにも感じます。

井原村の農民はいつまでたっても応じず

渋沢は御目見以上の特権であるかごに乗り、井原村を訪れ、代官に「村々の二男・三男で志ある者をすみやかに召し連れろ」と命じます。

ところが、代官から「直接、ご自分で申し渡すほうがよいと思われます」との言葉を受けます。そこで、陣屋の白洲で直々に声かけするも「すぐにお請けいたします」との返事だけで、いつまでたっても応じる者はいませんでした。

厳しく言い渡したり、時に「器量しだいで、立身功名のできる世の中であるから、土臭い百姓で生涯を終わるよりは、ここで奮発して出るがよい」と激励したりもしましたが、誰も応じてくれません。

渋沢は何か理由があるはずと思いつつも、それがわからぬので、少し気長に考えて待つことにしました。

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渋沢は農民の呼び出しを止め、庄屋から紹介された学者・阪谷朗廬(さかたに・ろうろ)や剣術家の関根某のもとで、議論をしたり、剣術をしたりしました。

興譲館という学校を開いていた阪谷のもとでは、書生らと宴会したり、鯛網に出かけたりして仲を深めます。剣術家の関根のもとでは、彼と勝負し、渋沢が勝ちをおさめています。

そうしたことを日々、やっていくうちに「一橋家へ奉公したい」という村の者が2、3人現れるようになりました。渋沢がもくろみをもって、あえて村の者との交流を深めようとしたのかどうかはわかりません。しかし、内堀を埋めようと思えば、まずは外堀から埋めるという戦法ではあります。

渋沢は応募してきた者に、志願書を書かせたうえで、庄屋を旅館に招集し、志願書を見せつつ、こう言いました。

「わずかの時日、自分に接した人の中から4、5人も志願者があるのに、数十村、数百人のうちで1人も希望者がないという道理はない。考えてみるに、これは何者かが邪魔をしているのではないか。事と次第によっては、庄屋の10人や15人を斬り殺すくらいのことはなんとも思わないから、あまりグズグズすると、そのままにはしておけない」

代官から「遠ざけておけ」と指示があった

この渋沢の脅しで、庄屋たちが「代官から、領民の難儀となるので、(渋沢を)敬して遠ざけておけとの指示があった」ことを吐露します。

そこで、渋沢は代官に対しても「もしもできないというときには、その証拠を明了にしなければならない。そのときは貴殿にも、どのような迷惑を及ぼすかもしれない」と脅し文句を放ちました。

これが効いたのか、翌日には志願者が続々と集まり、その数は200人となったのです。渋沢の巧みな作戦勝ちでありましょう。

渋沢は他人との交際の仕方について、こう述べています。

「交際の要旨は、事に当たっては切実に考えること、人に対してはいささかも誠意を欠いてはならぬという点にある。(中略)相手の貴賎上下に拘らず、如何なる階級の人に向こうても真実に交わり、言々句々、一挙一動、すべて自己の衷心から出るというのが、真正の交際であろうと考える」(『渋沢百訓』)

今回の兵士募集も、渋沢の人柄や本気度が伝わったからこそ、成功したと言えるでしょう。

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(参考文献)

『雨夜譚』(岩波文庫)

『渋沢百訓』(角川ソフィア文庫)


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