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安倍晋三政権の暗転と迷走


この記事は保存版レベル。素晴らしい着眼と分析。確かに、中西氏の言う通りになっている。

 

 




https://bunshun.jp/articles/-/40236

「安倍政権はあの瞬間に一変した」歴代最長“一強”政権が暗転した“2015年夏の分岐点”とは

「実は第1次政権の方が成果を上げているのです」

2020/09/13

 突然の安倍晋三首相辞任表明を受け、9月14日には自民党総裁選の投開票が行われる。“安倍一強”と呼ばれ、約8年という史上最長の連続在任期間を記録した安倍政権は、どんな「レガシー」を残したのか。京都大学名誉教授で国際政治が専門の中西輝政氏に聞いた。

◆◆◆

安倍“一強”政権はどうして生まれたのか

 第2次安倍政権が成立したのは2012年の12月。そこから約8年という歴代最長の政権になりました。まずは、この長きにわたり政権を担当し、病によって退かざるを得なくなった安倍氏には敬意を表し「ご苦労様でした。今後は一日も早い回復を」と申し上げたい。

 その上で、以下、安倍政権のとりあえずの総括と評価を考えてみたいと思います。第一に、これほどの長期間、政権を維持することが出来た理由を考えてみると、大きく言って3つあると思います。

約8年の歴代最長第2次安倍政権はいつから「変質」してしまったのか ©AFLO

 まず、何といっても衆議院・参議院あわせて6回あった国政選挙にすべて勝利したこと。勝負を仕掛けるタイミングや戦術が上手く、次期自民党総裁の有力候補である菅義偉官房長官も“軍師”として、それをうまく支えた結果、自民党内ににらみをきかせ「一強」体制を敷くことができ政権が安定しました。

 次に、2014年に内閣人事局を作り、これも菅官房長官を中心として、省庁幹部の人事を抑えて官僚を強力に支配する体制を築いたこと。それまでの政権は、官僚の抵抗から毎年のように政権内部の情報が漏れてスキャンダルが発覚したり政策が上手く進まなくなったりしていましたが、安倍政権だけは機密情報がほとんど外に出ることなく、それも長命の大きな要因でした。

 とにかく人事で官邸から報復されるのを恐れ、政権に異議を唱える官僚は皆無になり、過度な忖度から公文書の改ざんまで起こった。しかし結果として、政権の足下はより強固になりました。

 そして、本来、有力な対抗馬が次々と自ら崩れていったという強運も大きかったと思います。野党が分裂をくり返したことはいうまでもありませんが、自民党内でもアクシデントが相次ぎました。

町村信孝氏(左)や谷垣禎一氏ら“対抗馬”がアクシデントに見舞われたことも政権長期化の一因になった ©文藝春秋

 自民党が下野した2009年から2012年まで総裁として党を支えた谷垣禎一氏は2016年に自転車事故で政界の一線から身を引き、安倍首相の強力なライバルだった町村信孝氏は2012年以降、度重なる病に見舞われ亡くなりました。これに2017年の総選挙直前に起こった小池百合子氏の「排除します」という発言も加わるでしょう。要するに、政権が何もしないまま、「一強」体制が強化されていったのです。

「1年ごとに変わらない」首相で得られたこと

 いずれにせよ、その一強体制に支えられて、日本政治に久しぶりの「長期安定」をもたらしたことは、安倍政権の最大の功績といえるでしょう。

 第2次安倍政権が成立するまで、日本では総理大臣が毎年変わる事態が続いていました。実際、これほど安定した政権が持続したことで、得られたことも沢山ありました。

 

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 たとえば、外交政策の安定。日米豪印を中心とした安全保障面での協力が進み、2020年代に続く国際秩序のひとつの流れに貢献しました。また、昨年のG20でも議長国として安倍首相は先進国とそれ以外の色々な国をまとめあげ、日本の国際的な存在感は高まりました。

 さらに、日本国周辺では2010年代に深まった厳しい安全保障環境に腰を据えた対応ができました。2010年には、尖閣諸島付近で中国漁船が日本の海上保安庁の巡視船に船体を衝突させ日中間に緊張が走る事件が起こりました。また、2011年からは北朝鮮の金正恩体制が発足し、以来、金正日時代の約10倍のペースで弾道ミサイルが発射されています。

金正恩体制以降はそれまでの約10倍のペースでミサイルが発射されるなど安保環境はこの10年悪化し続けた ©AFLO

 このように悪化する安保環境に対応して、安倍政権では2013年にアメリカを見本にした国家安全保障会議(NSC)が作られました。総理大臣と官房長官、外務大臣、防衛大臣が中心となり、国家安全保障の重要事項が迅速かつ省庁横断的に決定されるようになったのです。

 しかし他方で、この周辺環境に対応するために、妥協をした面も多かった。とりわけ、2015年に集団的自衛権の限定行使をめざす安全保障関連法案を可決させるために払った犠牲は大きく、それが政権のその後の行く末にとって、大きな分かれ道になっていきました。

自ら“墓穴”を掘った安倍政権

「改憲派」の“切り札”として発足した第2次安倍政権(写真は2013年) ©JMPA

 安倍内閣の政権としての大目標は、国のあり方を決める憲法の改正でした。安倍首相と同じ保守の政治理念を持ち、憲法改正を長年求めてきた人たちにすれば、政権基盤も確かで実行力もある第2次安倍内閣は、まさに切り札的存在でした。とりわけ2016年以降、衆参両院で3分の2の多数を得てからは、安倍政権は憲法改正へとまっしぐらに進むだろう、と改憲派は大いに期待しました。

 しかし、政権後半期、安全保障環境が一段と激化する中で、これまでの憲法や安保関連法では対応できない事態が想定されるようになると、当然、憲法改正に正面から取り組むことによってしか、実現できないテーマが増えてきたのですが、すでにそれ以前に安保関連法を通すために、憲法解釈の変更という手段をとって対応したため、本来的な「改憲の必要性」という大義が薄弱になってしまいました。いわば、中途半端に「憲法問題」に手をつけたことが、その後の憲法改正の「王道」を閉ざす結果になったといえるでしょう。

 
 
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 そもそも、2015年に制定された安全保障関連法は、それまでの内閣では認めてこなかった集団的自衛権の憲法解釈を2014年に閣議決定によって変えた上で通した法律でした。この解釈変更は、憲法改正はおろか議会の関与という形もとらず、行政府の決定だけで押し通し対応を急いだわけですが、たとえその安保政策上の必要性はあったにせよ、このやり方をとったことの代償は大きかった。

 つまり、「解釈変更で対応すれば、改憲しなくてもいい」という前例を作ってしまったことで、アメリカを含めて実務レベルにいる人々からは、「もう憲法改正は必要ない」とのコンセンサスが広がり、改憲の動機づけが失われていったのです。

2015年の安全保障関連法制定は「改憲せずに解釈変更で対応する」前例になり、改憲という目標を失った政権は一気に迷走をはじめた ©文藝春秋

 上で述べたように、これ以上、安全保障環境が悪化して脅威が切迫すると、いずれこうした「急場しのぎ」の限界を迎え、現行の憲法・法制度の中で対応することは難しくなってきます。もちろん「自衛隊の明記」では、とても対応できない事態は十分あり得るでしょう。にもかかわらず、「あの安倍さんでも、できなかったんだ」という認識を定着させてしまい、結果として安倍政権はあらかじめ「憲法改正」への道を閉ざし、自ら“墓穴”を掘ってしまったのです。あの2015年の夏こそ、政権の大方針を見失ってしまった瞬間でした。

“妥協の産物”が残した「危うさ」

 加えて、安全保障関連法案をめぐって野党などの大きな反発を受け、その中で何としてもこの法案を通すために、他の重要分野でリベラル派の世論など、様々な対立勢力への譲歩を強いられました。この妥協の産物の代表例が、同じ2015年夏に発表された「戦後70年談話」でした。

2015年、安全保障関連法をめぐって野党らとの対立は加速。その結果として数多くの「妥協の産物」を生み出した ©文藝春秋

 従来、安倍氏が口にしてきた保守の歴史観を封印し、村山談話など安倍氏がそれまではっきりと距離をとってきた歴代政権の談話を、より明確な形で踏襲せざるをえなくなったのです。私自身、談話に先立ち官邸に集められた有識者による「21世紀構想懇談会」に参加していましたが、そこでの議論も、またそれにもとづいて出された「戦後70年談話」も結果として、それまでの戦後50年に出された村山談話、60年に出された小泉談話を踏襲したものになりました。

 日本人には、その認識が乏しいのですが、国際社会では、いったん歴史解釈が固まれば数世紀にわたって固定化されてしまいます。それだけに、世界史的出来事に関わる歴史の解釈がきちんと定まるには、100年単位の長い時間もかかるのです。実際、近年の研究ではあの戦争についても新しい歴史観が次々と力を得ています。


 
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 そうした状況で、村山談話と同工異曲の侵略戦争史観にもとづいた解釈を、国家を代表する指導者――しかも“保守のエース”とされた安倍氏が自らの手で固定化させてしまったことは大きく、結果としてナチス・ドイツと同罪の日本、ということを自ら認めてしまったことは、将来的に日本の存在を大きく揺るがしかねません。それだけの重たい行為にもかかわらず、この「危うさ」が充満した70年談話をそのまま軽々に出してしまったのです。日本の主要メディアやリベラル派の反発に加えてアメリカの「圧力」を強く感じていたから、と言われていますが、それならせめて談話を出すのを見送った方が良かったのです。

中西輝政氏 ©文藝春秋

対ロシア交渉で表面化した迷走

「安保法制」成立と引き換えに、政権としての本来の目標や方向性という大きな視点を見失ったことで、政権は2016年以後、急速に一気に迷走を始めました。第2次安倍政権を前期と後期で分けるなら、この曲がり角以降、森友・加計などスキャンダルの噴出もありましたが、それよりも政策自体が短期的な視点と支持率に強くとらわれるようになり、いきあたりばったりの政権運営になっていったことの方が大きかった。その末期的な現象として、コロナ禍が表面化した際、特別定額給付金の金額と対象をめぐる二転三転や、大不評だった「アベノマスク」で、多くの国民がその迷走ぶりに衝撃を受けることになったのです。

 他方、外交面では政権当初からの「地球を駆けめぐる外交」では華々しい首脳外交をくり広げ、国際社会での日本の存在感を向上させ、さらに「TPPイレブン」など、一連の貿易交渉では多くの成果を上げたことは高く評価されるべきでしょう。ただ、佐藤栄作政権の「沖縄返還」などに匹敵する、国家的課題に絡む外交では成果をあげられなかった。

 とくに2016年以後、上で見た内政面での迷走は、外交をめぐっても次々と表面化していきます。当初はプーチン氏のロシアとの間の北方領土交渉は1993年の東京宣言以降、北方“四島”の問題を解決した“後”に平和条約を結ぶという従来からの「前提条件」を継承して交渉していました。

北方領土をめぐるプーチン大統領(右)との対ロ交渉は安倍首相が安易に交渉テーブルについたことがいまも大きく響いている ©AFLO

 ところが、2018年9月にロシアで開催された国際会議で、プーチン大統領が「今年末までに平和条約を前提条件なしで結ぼう」と唐突に発言。日本側からすれば、先に見た「東京宣言」で北方“四島”が領土問題の対象ということをロシアに認めさせた線からは大幅に後退する物言いでしたが、安倍首相はこの交渉のテーブルに安易に座ってしまい、同年11月のシンガポールでの日露首脳会談で“歯舞・色丹”二島だけを対象とする線で交渉する方針に大きく転換してしまいました。


 
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 しかし、その後、プーチンの「日米安保がある限り、二島でさえ引き渡せない」という難癖外交の手練に翻弄され、結局、一島の返還もなしに平和条約を結ぶ、という選択肢しかなくなり、日露交渉は挫折に終わったのです。その上、今年7月に成立したロシア憲法の改正で(若干の但し書きはあるものの)「領土割譲禁止」が明記され、この間のプーチンの対日交渉が結局、「欺瞞外交」だったということが明らかになりました。

隠せなくなった安倍政権の本質的な限界

政権が短期的な視野にとらわれたことで日韓関係も「戦後最悪」になってしまった ©文藝春秋

 また、昨年の韓国との関係悪化も解決されないまま残っています。2018年に下された徴用工問題をめぐる韓国の最高裁である大法院の判決がきっかけでしたが、それは明らかに国際法の基本線を外した判決でしたから、日本は国際社会に訴えて韓国に警告をくり返し、「外堀」を埋めるように交渉を進めれば良かった。

 にもかかわらず、いきなり韓国への輸出産業の根幹に関わる材料について輸出規制を強化して、一気に両国の関係は大変悪くなってしまいました。一連の問題では非が韓国にあることは明らかですが、「戦後最悪の日韓関係」は明らかに大きな負の遺産となりました。これに加えて、対北朝鮮、すなわち拉致問題の解決も、安倍氏は「前提条件なし」の首脳会談、という提案まで降りてアプローチしましたが、結局、成果は出なかった。

 いずれも、政権の「レガシー志向」が強すぎて大きな視点を見失ったことで、短期的な戦術的考慮から目標を低くしてしまい、相手に足下を見られ、結局、成果に結びつかなかった。結果的に、先に見た通り憲法をめぐっても改正へのハードルは非常に上がってしまいましたが、外交面においても、このあとの政権は「安倍政権によってスタートラインが後ろに下がってしまった状態」から交渉を組み立てなければいけません。憲法、歴史認識、国の主権と国民の安全という国家の根幹に関わるところで生じたこの外交の挫折は、第2次安倍政権がその後期になって浮上させた本質的な限界でした。

 もともとの政権基盤が強力だったため長命ではありましたが、長く続いたがゆえに、政権後半にこうした「負のレガシー」を数多く生み出すことにもつながってしまいました。その意味で、良くも悪くも第2次安倍政権最大の特徴は「長命だった」ということに尽きています。


 
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「実は第1次政権の方が成果を上げていた」

 くり返しますが、たしかに第2次安倍政権は、コロナ禍まではアベノミクスで経済を一定程度上向きにし、外交でも日米関係を好転させ、国際社会でも日本の存在感を高めましたが、それらはいずれも、大きく言えば状況の「一時的な改善」という次元の成果であって、領土の返還や憲法改正、さらには拉致問題の解決など、後戻りしない制度的・構造的な成果ではなかったことは断っておかなければなりません。むしろ、その点では、第1次安倍政権の方が、成し遂げたことは多かったのです。

2006年9月から2007年8月までの約1年しか続かなかった第1次内閣の方がむしろ「レガシー」が多い ©文藝春秋

 2006年9月からの、たった1年間しか存在しなかった第1次安倍政権ですが、その間には、国の教育の根幹に関わる「教育基本法」を改正し、憲法改正の第一歩である「国民投票法」を制定しています。さらに、防衛庁を防衛省に昇格させているのです。これによって同省の地位が向上し、独自に予算が組めるようになったことは、その後、激化していった2010年代の安全保障環境に適応する上で、非常に大きな意味を持ちました。わずか1年の間に、これだけの「レガシー」を残し、その後の政権は、第2次安倍政権も含め、この「レガシー」のうえに乗っかって政策を行ってきたのです。

 今のところ、世間の評価とは逆になりますが、第1次政権は本来、これだけの業績と胆力があった政権だったのです。ですから、「抵抗勢力」の大きな反発を受け短期に終わったわけです。だから、第1次政権と比べても政権基盤を強めた第2次政権が誕生したとき、多くの人が「これで領土問題も、憲法改正も、大きく前に進むだろう」と期待した。主権国家としての「構造的な後戻りしない改革」が実行されることで、激変する21世紀の国際社会でも、日本が対応していけるだけの強固な“体制”を築いて欲しいと願ったのです。しかし実際には、2015年の夏を境に、一度狂った歯車を元に戻すことができず、政権の活力は刻一刻と“脱力”していきました。

次の内閣で“挙国一致”できるのか

 そして、今年に入ってコロナ禍に経済危機や自然災害、さらには中国の暴走、米中対立の激化と、日本を取り巻く環境は非常事態を迎えています。すなわち安倍首相の辞任は、日本という国が本当の「有事」にあることを端的に示しているのです。

岸田文雄、菅義偉、石破茂の新総裁候補3人。次期政権には“挙国一致”が求められている ©文藝春秋

 日本が、今後、国際社会が大きく混乱していく中でも国としての確固たる進路を見いだし、国民生活を守り、同時に自由と人権、法の支配という価値観に立って他国をまとめていく存在になれるのか。それとも、さらに危機的状況が極まって脱力とカオスが進行していくのか。

 長期安倍政権が終わった今、時あたかも野党の合流もあり、次の政権には挙国一致的に立場を超えて団結し、従来の行きがかりにこだわることなく、果断にそして徹底した合理主義に則って決断し対応していくことが強く求められています。日本は、それほどの大きな危機の中にあるのです。

 

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